深夜零時。無理矢理バイトから上がった僕は、最終電車に転がり込むように乗車して、家に帰ってきた。ショルダーバッグから鍵を取り出して、鍵を開ける。薄暗い玄関に少しの恐怖感を感じながら、手探りでスイッチを探して明かりを点けた。
「ただいまー」
そう言いながら靴を脱いで、僕はリビングへ向かった。
「たーだーいーまー」
扉を開けてすぐ横にあるスイッチを押して電気を点けると、紙の中に埋もれるように眠る同居人が目に入った。
「もぉ~……ヒロちゃん起きてー」
ショルダーバッグを部屋の隅に置いて、すやすやと寝息をたてる同居人の枕元に立って、つんつんと頬を突いてみてもまったく起きる気配を見せない。今度はぺちぺちと頬を軽く叩いてみると、うぅん、とくぐもった声がして、またすぐにすぅ、と寝息をたてた。
「ヒロちゃんってばー」
あまり乱暴に起こしたくないけど、一向に起きる気配がない同居人の肩を仕方なく揺さぶってみると、今度は効果があったのだろうか、ぎゅっと目を瞑ってからゆっくりと目を開けた。
「ん、……まか?」
「そーだよ。僕だよー」
目を擦ろうとした同居人――ヒロちゃんの手を掴んで、とりあえず身体を起こさせる。勢いよく引き上げたものだから、首の据わってない赤ちゃんみたいに力のない動きを見せた首が怖くて、手を添えて支えてあげた。するとヒロちゃんは小さな声で「さんきゅ、」と、おおよそ本来の発音とは思えない単語を発した。
「ヒロちゃーん、眠いならベッドで寝て~……って、そのカッコ……」
「んぅ……」
「はぁ……もぅ、またぁ……」
へにゃりと僕の胸に倒れ込んできたヒロちゃんの服は、今朝一緒に家を出たときと一切変わってなくて。もうそれだけで察せるけど、またお風呂に入らずに寝ちゃったみたいだ。それだけならいい。掴んだままの手はよく見たらいろんな色の絵の具で汚れてるし、なんなら爪の間にまで入り込んでいる。
「はぁ……」
まぁ、靴脱いでるだけマシかな。大体は玄関で倒れ込んでるし。いや、ちゃんと家に帰ってきてくれるだけでも上出来っていうか。ひどいときは駅とか大学の構内にあるベンチで寝てたり、友達の家で寝てて鬼電がかかってきたり――って、そんなことはいい。とりあえずちゃんとお風呂に入れて、それから寝かさないと。この様子だと、明日は朝が早い日な気がする。
それを言ったら僕も明日は朝から講義があるから、さっさと寝かせて欲しいもんだけどね!
「こ~ら~! ヒロちゃん起きて~! ほら! ばんざーい!」
「ばんざぁい……」
脱衣所に引き摺りこんで数分。今にも寝そうなヒロちゃんの頬を引っ叩いて、寸でのところで止めながらなんとか脱がしていく。
――なんだってこんなときに限ってネルシャツじゃなくて、ごっついパーカー着てるのかな!
フードを引っ張って、無理矢理パーカーを脱がすと、ヒロちゃんの髪は暴風に当てられたのかってくらいぐしゃぐしゃになってて、思わずクセで直してあげそうになったけど、よく考えなくても今からお風呂に入るんだからいいんだった。
手早く洗濯かごに脱がした服を放り込んで、ついでに僕もシャツとカーディガンとか諸々全部脱いで、一緒に浴室に入った。
「はい! 座って!」
お風呂用の椅子を置いて、今にも寝そうなヒロちゃんを座らせた。湯沸しのスイッチをつけて、お湯が出るのを待たずにヒロちゃんの頭にシャワーをぶっかけて、髪を濡らす。わしわしと手を動かして、地肌にまでお湯が行き届いたところで、シャワーを止めて、僕はシャンプーのポンプを適当に何回か押した。手のひらからこぼれそうな液体をダッシュでヒロちゃんの頭にかけて、とりあえず先に泡立てるのを優先に手を動かした。
「ヒロちゃ~ん、また髪増えたでしょ~」
「んぇ~……」
「もぉー! 最低でも三か月に一回は美容院行ってっていつも言ってるでしょー! ヒロちゃんただでさえ髪の毛多いんだからー!」
「めんどくさいぃ……」
「髪の毛多いと洗うのに時間かかってもっと面倒だよ!」
「うー……」
「うー、じゃない!」
「うぅ……」
地肌に爪を立てないように、けれどしっかり洗うためには指先に力をいれないといけなくて。そんな細心の注意を払いながら、耳の裏あたりとか、襟足あたりもしっかりと洗ってから、音でも分かるくらい痛そうな水圧で思いきり泡を流した。そのとき、ヒロちゃんがなんか言った気がしたけど、聞こえてないふりをした。嫌だったら自分で入れってんだ。
「はーい、次は身体洗うからねー」
「えーい……」
「……もうされるがままだよね……」
脱力したまま自分から動こうとしないヒロちゃんの背中に、お湯で泡立てたボディーソープを塗りたくる。ちょっとどころかかなり猫背なヒロちゃんの背中は、軽く触っただけでも分かるくらい背骨の形が分かって、ちょっと気味が悪かった。
「はい、腕伸ばして~」
「うぃ」
ボディソープを足しながら、血流を意識して、マッサージがてら片腕ずつ、丁寧になぞる。前方に突き出す形で腕を伸ばしているから、背中側から洗っていた僕は、少しヒロちゃんに覆いかぶさる形になっていた。
ち、違う。これは僕の腕の長さが足りないんじゃなくて、ヒロちゃんの腕が無駄に長いんだ。断じて短足、いや短腕ってことはない。
そんなことを思いながらグイグイと手を動かして、本題を取った。――そう、絵の具まみれの手だ!
「ヒロちゃ~ん、ちょーっと痛いけど我慢してねー」
「うぇーい……」
壁面に備え付けられたラックに掛けてたスポンジを片手に取って、空いたもう一方の手でヒロちゃんの手を掴んだ。荒い面のスポンジを、汚れにめがけてガシガシとこすり付ける。ヒロちゃんはイテテ、と言ってたけど、こうでもしないとこびりついた絵の具は取れないから仕方ない。
「爪の間のは~……めんどくさいからいいや」
「んー」
真っ赤になった両手をぺいっと放り投げて、いったん上半身の泡を洗い流した。乾燥しちゃいけないもんね。
「次は足ですよお客様~」
「ど~も~……」
ヒロちゃんの前方に移動して、不服ながら僕は膝をつく形になった。ボディーソープをまた泡立てて、今度はふくらはぎから攻める。側面っていうのかな、骨と筋肉の間っぽいとこを意識して揉む、を数度繰り返した。それから足を上げさせて、足の指の隙間を丹念に洗う。
「ヒロちゃんのことだから全然洗ってないでしょ」
「……」
「やっぱりぃ。足の指の隙間ってしっかり洗わないと臭いの原因になるんだよー」
「別に誰も気にしないだろ」
「じゃあ素足で部屋の中歩かないでね」
「…………それって臭いってことか?」
「そう思うなら洗ってくださいお客様ー」
「あ、おい! はぐらかすな!」
吠えるヒロちゃんの鼻を摘んで、「冗談だよー」って笑ってやると、むぅ、と言ってバツが悪そうな顔をして黙ってしまった。
「僕が洗ってあげてるんだから。大丈夫だよ」
「…………、」
にこっと笑うと、ヒロちゃんはますます居心地悪そうにして、顔を逸らしてしまった。
「あはは、ヒロちゃんかわいいー」
「うっせ」
ていうか、すっかり目覚めてるじゃん。そんなことを指摘したら、ヒロちゃんはきょとんとした顔で「あー、そういやそうだなぁ」なんて言った。まあいっか、って感じで流そうとしているのがありありと見えて、僕は一瞬イラッとしたけど、泡を洗い流してる内にそんなことも一緒に流れて忘れてしまった。
「……なあ、真夏」
「なぁーにぃ?」
ちゃぷん、と音を立てる浴槽の横で、僕は髪の毛でツノを立ててみたり、そんなちょっとした遊びをしながら、ヒロちゃんに目を向けた。
「……明日、目玉焼き食べたい」
ぼそっと呟いたヒロちゃんの長い前髪から、ぽたりと一滴、雫が落ちた。
「……それって朝?」
「うん」
僕が聞き返すと、ヒロちゃんはこくりと頷いた。うわぁ。マジか。ヒロちゃん、目玉焼きにはやたらとうるさいから嫌なんだよなぁ……。
「えー、めんどくさいからやだー。スクランブルエッグならいいよぉ」
なんて、心の声そのまま伝えたら、ヒロちゃんはみるみるうちに顔を顰める。口を尖らせて、「やだ。目玉焼きがいい」と言うと、ぷくりと頬を膨らませた。
「……」
あーだめだ。完全にその気分らしい。こうなったらヒロちゃんは僕が作るって言うまで譲らない。
「……形わるくても文句言わないでよね」
「やだ」
「もう自分で作ってよぉ!」
◇◆◇◆◇
床に散らばったままだった紙とか鉛筆とか消しかすとかその他諸々を、掃除機なしでなんとか片付けてから、布団を二つ広げて、僕とヒロちゃんは手分けして布団を広げた。
「じゃ、電気消すよー」
「ん、」
ヒロちゃんがきちんと布団に潜りこんだのを確認してから、リモコンを使って電気を消して、僕も布団に潜りこんだ。枕元にリモコンを放り投げて、冷たい布団に身震いする。
うう、寒い。湯冷めしちゃったじゃんか。ヒロちゃんのバカ。
「おい、声に出てんぞ」
「えーほんとのことでしょー」
ひょこりと顔を出したヒロちゃんに、僕は抗議の声を向けた。するとヒロちゃんは、そっぽ向きながら、
「……悪かったな」
と一言謝った。
「別にいーよ。もー慣れたし」
「……そりゃどーも!」
