――雨は、嫌い。
 直毛すぎて、頑張って乾かしたってぺたんとする髪の毛が、湿気を吸って余計重く見えるから。
 学校に行くまでの途中でずぶ濡れになる靴下とローファーは超バッド。これだけのために替えの靴下を持ってきたり、靴の中を乾かす用に新聞紙なんて持っていったりして。そうして余計な荷物が増えるのが特に嫌いだった。
 でも、深い青で縁取られた白生地に散りばめられた小さな赤いハート柄が可愛いお気に入りの傘が差せるから、そこだけは許せるかもしれない。

 これは、そんな雨が嫌いな私と、雨が苦手なある先輩とのお話。

5:merry/天気雨 1

 ぽた、ぽた。
 どこからともなく伝ってきた雨水が、ベランダの柵に当たって音を奏でる。
「はぁ……」
 カーテンからそっと外を覗いて、止みそうにない雨に溜息を吐く。
 昨晩から降り続ける雨は、勢いは緩やかなものだけど、もう一生分流れたんじゃないかと思うくらいの量が降っていた。
 ――やだなぁ。素直にそう思う。外じゃ洗濯物が乾かないから乾燥機を使うしかなくて、電気代がかさむのもだけど、なによりも今からこの雨の中を登校しなければいけないのが嫌だ。
 家から学校までは、歩いて十分くらいの距離だ。たかが十分、されど十分。いくら気をつけて歩いても、こんな雨では濡れるものは濡れるだろう。
「やだなぁ……」
 あと数十分後には訪れるはずの暗雲に肩を落とすと、カチャリ、とリビングの扉を開く音がした。
「ふぁあ~……おはよぉ、よねぇ……」
「お兄ちゃん、遅い。もう朝ご飯出来てるよ」
「あ~……わりぃ~……」
 呑気に欠伸をしながら入ってきたお兄ちゃんに、私は半ば八つ当たりをするように睨みつけた。けど、お兄ちゃんは特に気付いてない――というよりは、何も見えていなかったのか、フラフラと今にも転びそうな足取りで食卓につく。
「もう……」
 スウェットを着たままの兄のだらしなさに呆れながら、私はご飯をよそうためにキッチンに向かった。

「本日は全国的に雨模様となり――」

 いつの間にか電源が入れられたテレビから、通りの良い声が天気予報を読み上げる。言われなくても分かる予報を聞き流しながら、今にも寝そうにうつらうつらとする兄の目の前に朝ご飯を並べる。
 今日は雑穀ご飯と、もやしの辛子じょうゆ和え――と言っても、お兄ちゃんは辛子が入ってると絶対食べてくれないから、一人分だけしょうゆで和えただけのものだけど。
 あとは、そうめんを入れたお味噌汁。これは田舎に住むおばあちゃんが教えてくれたアレンジレシピ。半信半疑で作ってみた時、偏食家のお兄ちゃんが「意外とイケんなこれ……」と言って以来、週に一度は必ず出すようにしている。
「おっ、そうめんじゃん」
「ふふっ」
 食卓に並んだ朝ご飯を見て、お兄ちゃんの顔がパッと明るくなる。そうめん効果は今週も炸裂らしい。
「いただきます」
「はーい」
 手を合わせてから、お箸を持って味噌汁を啜りだしたお兄ちゃんに遅れて、私もいただきますのポーズをしてご飯に手をつけた。
 きびか、もち麦だったかな。噛むとプチプチとする食感を楽しみながら、炊きたての熱も相まって増すご飯の自然な甘さに、幸せな気持ちになる。ほくほくと広がる甘味を一口分飲み込んだところで、次にもやしに手を伸ばした。
 一口分噛みしめると、キュッと小気味いい音が口内に響く。そこからしょうゆ独特の香ばしい大豆の味と、溶かし混ぜた辛子の辛味が舌をチクリと刺す。
 ――うん、美味しい。しょうゆ単体でも十分食べられるけど、薬味として辛子を効かせることで味にメリハリをつけるのだ。特に今日はそうめん入りのお味噌汁で、まったりとした舌になりがちだから、こういうピリッと来るものは目を覚ますのにもちょうどいい、かもしれない。
 お味噌汁を啜ると、少し煮とけたそうめんのせいか、とろりとした汁が舌に広がる。つるりと麺を吸うと、小麦のあのなんとも言えない素朴な味と、味噌のまろやかに撫で上げるような旨みと塩味が混じり合って、思わずほう、と溜息を吐いてしまった。
「はぁ……」
 温かいお味噌汁に、身体の内側がぽかぽかとしてきて、ほっこりとする。お兄ちゃんも同じなのか、ゆっくりと飲み干して、静かに汁椀を机に置いた。
「やっぱ、味噌汁はいいな……」
「そうだねぇ……」
 ほわほわとする身体と心に、自然と頬が緩まる。
 さっきまで雨で憂鬱な気分だったのに、ご飯を食べたら不思議と元気が湧き出てきて、学校に明るい気分で行ける気になってきた。気分が変わっただけで、それ以外の状況は何も変わっていないんだけど。人というのは単純なのか、嫌だなって思っていたことも、気分次第で案外簡単に許せてしまうものらしい。
 
「……って、あー!」
 まったりとした空気に浸っていると、テレビに表示されたデジタル時計が午前八時を指していた。勢いで立ち上がると、お兄ちゃんがびっくりした顔でこちらを見ていた。
「急になんだよ?!」
「じ、時間! もう八時だよお兄ちゃん! 早くしないと遅刻しちゃう!」
「はぁ? そんなわけ……うわ、マジかよ」
「マジだよ!」
 そんなことを会話しながら、急いで残りの朝ご飯を胃に流し込んだ。本当はもっとゆっくり食べたかったけれど、洗い物や身支度の時間を考えるとそんな場合ではなかった。お兄ちゃんも焦った様子で口に掻き込むと、「ごちそーさん!」と言って席を立ち上がって自室に駆け込んでいった。
「もう!」
 特にのんびりとしていたつもりはないのに、朝というのは無情にも時間が早く流れるもので。食器を洗って、拭くかどうか迷って結局カゴに放置したところで、制服に着替えたお兄ちゃんが出てきた。
「わりぃ! 俺先に行くわ!」
「あっ! お兄ちゃん!」
 テレビくらい消していってよ、と言う前に、お兄ちゃんはドタドタと大きな足音を立てて出ていってしまった。
「むぅ~……」
 リビングから玄関に繋がる扉も開けっぱなし、脱衣所を見に行けば、さっきまで着られていたスウェットは洗濯カゴではなく、洗濯機に丸めて放り込まれていた。
「もー! お兄ちゃんのばか!」
 どうせ最後は洗濯機に入れるからいいんだけど、お兄ちゃんは酷いときはお風呂上がりのタオルもそのまま洗濯機に放り込んでるし、雨に濡れた制服のカッターシャツだって入れてしまう。
 すぐに洗濯するなら良いけど、朝にまとめて回す我が家ではそれはまずい。生乾きほど臭いものはないし、ただでさえ一日中着て汚れていたりする服を広げて乾かさず、洗濯機に入れるなんて。一晩放置された雑巾の臭いを知らないのだろうか、と思う。それを一緒に洗う私の気持ちになって欲しい。
 ……ということを、何度言っても覚えれない兄に辟易しながら、私は洗濯物を洗濯機に放り込んで、洗剤やらなにやらセットして電源を入れた。蛇口もしっかりまわして、準備よし、だ。
「あとは……」
 掃除は帰ってきてからでいいだろう。食器も同じく。洗濯物は干してから行きたいけど、そんなことしていたら朝礼の時間に間に合わない。
「……」
 ――まあ、朝礼に出るわけじゃないから、本当は遅れてもいいんだけど。
 そんな邪念が過って、頭を振って消した。
「……だめだめ。約束は、ちゃんと守らなくちゃ」
 
 ――朝は、他の生徒と同じ時間にちゃんと来ること。
 
 それは、保健室の――小枝ちゃん先生と交わしたものだ。
 教室に行けない私を、『生徒』として成り立たせるための、大切な約束。
 
「……よし!」
 髪を軽く縛って、お団子状にまとめる。わっかと毛先の量を調節して、残しておいた横髪を片側だけ耳に掛ければ、いつもの髪型の完成だ。
「髪よし、制服よし、荷物は~……多分よし! あとは……」
 戸締まりや電気の消灯など、一つずつ声に出して確認していく。日中、家には誰もいないから、後から気付いてもどうしようもないのだ。特に夏場や冬場はエアコンやら床暖房付けっぱなし、なんてこともあるし。
「うん……オッケー!」
 両親や兄の部屋も確認して、最後にリビングの電気を消せば、朝のチェックは完了だ。
「……それじゃ、いってきます」
 誰もいないけど。そう思いながら、ローファーに履き替えて、お気に入りの傘を持って私は学校へと掛けだした。