車が通るたび、あまり綺麗ではない水が飛び跳ねる。そのたびに足を上げて避けるフリをしてみる。ただ白線で線引きされた路肩を歩いていると、無遠慮な車が通るたびに避けようにもないほどに泥水が飛び散るのだ。
 ああ、嫌だ。早くちゃんとした歩道を整備して欲しい。なんて、越してきてやっと二年ほどの若輩者が思ってみる。でも、今まで住んだ街ではどこに行っても歩道が整備されていたし、駅まで歩いて数分とかで、こんな住宅街と住宅街の隙間を縫って学校に行くようなことなんてなかったから、なんだか新鮮であると同時に、単純に不便だなと思うのだ。
 路肩からやがてガタガタな舗装の歩道に上がり、水たまりを避けて歩く。それでもなお降り続ける雨と、避けきれなかった水たまりの跳ね返りで、校門にたどり着く頃にはローファーの中はぐちゃぐちゃになっていた。
「はぁ……」
 なんてこともあろうかと、靴下とタオルは持ってきたけども。一日の始まりがこうも最悪だと、テンションはガタ落ちというもので。
 水と気で重くなる足で、いつものように保健室に向かう。昇降口の下駄箱で上靴に履き替えるか迷って、足の状態を顧みてやめた。
「ごめんなさいっ……!」
 上靴を片手に持って、土足で廊下に踏み入った。本当は駄目だけど、上靴まで濡れるなんていう二次被害を防ぐためにはこうするしかないのだ。
 後ろ髪を引かれる思いで廊下を小走りで駆け抜けて、そのままの勢いで保健室の扉を開けた。カラカラ、と軽い音と同時に、消毒液や薬品の清潔そうな匂いが流れてきて、嗅ぎ慣れたそれにほっと一息つく。
「あら、時沢さん。おはよう」
「おはようございます、小枝ちゃん先生」
 正面奥の机で書き物をしていた小枝ちゃん先生が、私に気付いて腰を上げる。
「すごい雨だったね~」
「はい……」
 扉の脇に置かれた下駄箱に上靴を置いて、びしょ濡れの靴下を脱いでいると、目の前に真新しいふわふわのタオルが差し出された。
「わっ、」
「タオル、いるでしょう?」
 面食らっていると、小枝ちゃん先生はにこりと笑う。
 どうしよう。タオルは持ってきてるから、断っていいんだけど。というか、持ってるならそのほうが絶対いい。
 ……けど、借りてもよいものなら、借りてしまえという己もいて。せっかく持ってきた気持ちはあるけど、洗濯物を一つでも減らせるなら、ここは先生の厚意に甘えてしまいたい。
 確かにタオル一枚で、とは思うけれど。されどもタオル一枚だ。減らせるものはとことん減らしていこう。
「……ありがとうございます」
  少し迷ってから受け取ると、小枝ちゃん先生はくすりと笑う。
「本当はダメなんだけどね~。常連さんには特別待遇です」
 意地悪そうな顔でそんなことを言った小枝ちゃん先生に、私は唇を噛みしめた。
「っ、せんせぇ……それ、嫌味です……」
 そう言って私が頬を膨らませると、小枝ちゃん先生の表情は一気に真面目なものになる。
「そう思うなら、ちゃんと教室に行きなさい。ここはいつでも開いてるけど、教室はいつでも開いてるわけじゃないんだから」
「うっ……」
 耳が痛い。
 溜まらず耳を塞ぐと、小枝ちゃん先生はあっけらかんとした様子で「冗談よぉ」と言って笑う。それからぽん、と軽く私の頭に手を置くと、小枝ちゃん先生は机のほうに戻っていった。
「むぅ……」
 ちゃんと、教室に。小枝ちゃん先生の言葉が、重くのしかかる。
 行きたくないわけじゃない。むしろ、行きたい――行かなくちゃ、と思っている。
 でも、今日こそ行くぞ、と気持ちを固めるたび、どうしても足が竦んでしまって、結局ここに来てしまうのだ。

「誰? あの子……」
 最後に教室に行ったときのことを思い出す。
 目立たないように、こっそり、後方の扉から入って。でも、自分の席がどこにあるのか分からなくて。焦りとか、色々重なって真っ白になる頭で右往左往していたら、気付けばクラス中の視線を集めていた。
 ああ、耳が、痛い。聞きたくない。
 違う、違うの。私はただ、ただ。
「あー……ほら、噂のさ、」
 嫌だ。嫌だ。嫌だ!
「――めっちゃ可愛くね?」

 ――そんな目で、私を見ないで!

 ……気付けば、教室を飛び出していたことは覚えている。
 でも、まだ一年生で、入学したばかりで、校舎のどこに何があるとか、何にも知らなくて分からなかった私は、ただただ人目を避ける場所を探して、最終的に職員室に逃げ込んだのだ。
 何も言わずに泣きじゃくる私に、異様な気配を察知した先生達があれやこれやと手を焼いてくれたけど、それでも泣き止まない様子に見かねた小枝ちゃん先生が「良かったら、私に話してくれるかな?」って、言ってくれたんだっけ。
 どうしても人目につくのが嫌で。でも、学校にはちゃんと来たくて。授業は受けられなくても、ちゃんと、学校で、生徒としていたくて。
 そう、その時思っていたことを全部伝えたら、「じゃあ保健室登校から頑張ろうか」って、小枝ちゃん先生が言ってくれて。
 ここに――保健室に来るようになったのは、それがきっかけ。
 私はその日から、六月に入った今まで、ずっと保健室登校をしている。
「――気にしてる?」
「えっ、」
 保健室の中央に置かれた、会議に使われるような長机とパイプ椅子という簡素な作りの休憩スペースでぼんやりしていると、小枝ちゃん先生がマグカップを片手に私の目の前に座る。
「言い過ぎたなぁって、思って。さっきの」
「あ……」
 コトン、とマグカップを机に置いて、小枝ちゃん先生はくるくると横髪を指で弄る。檸檬色の、ふわふわしたコットンみたいな、柔らかい髪の毛。直毛の私じゃ絶対望めない髪質を持った小枝ちゃん先生が、正直、うらやましい。
「……正しいこと、だから……その、小枝ちゃん先生が、謝ることじゃないです……」
 途切れ途切れに私が言うと、小枝ちゃん先生は「謝ってはないわよ?」と笑って咎める。
「まあ、ね。あんまりうるさく言うのもどうかと思って、黙っていたのは本当のことなんだけど」
 小枝ちゃん先生は穏やかな口調で語る。
「多分、時沢さんが一番よく分かってることだと思うから、」
 小枝ちゃん先生の髪が、ふわりと揺れる。
「でもこのままだと、ますます行きづらくなるわよ?」
「っ……」
 小枝ちゃん先生の言葉が、真っ直ぐ心に突き刺さる。
「……そう、だけど……」
 分かっているのだ。
 分かって、いるんだ。
 このまま保健室登校を続けていては、私は何も変われないんだと。ただただ、緩やかに、駄目な子になっていってしまうんだと。いつまでたっても、変われないまま、私は、私のままで。
 ――お兄ちゃんにも、置いて行かれてしまうのだと。
「あのね、何も悪いわけじゃないのよ」
「え、」
 いつの間にか俯いていると、小枝ちゃん先生の優しい声が頭上から降り注ぐ。
「私はなにもね、咎めてるわけじゃないの。世の中、行きたくても学校に来れない子とか、何が何でも学校に行きたくないとか、それこそあなたみたいに色々思うことがあって、教室に行きづらいとか。色んな子が、いるから」
「……あ、」
 言葉に詰まっていると、小枝ちゃん先生はにこりと笑って、語り続ける。
「私はね、行きたくないなら行かなくて良いと思うし、行きたいなら行くべきだと思ってる。ただ、それだけ。ひどい話、学校なんて行かなくても、今はどうにかなっちゃう世の中だもの」
 先生が学生の時に比べたらね、と付け加えて小枝ちゃん先生は、マグカップに口を付ける。静かな保健室に、小枝ちゃん先生のお茶を啜る音が響いた。
「まあ、教師がこんなこと言うのはダメなんだけどね。だから、内緒よ?」
「先生……」
 唇に人差し指を当てて、いたずらっぽく笑う小枝ちゃん先生に、私も釣られて口元が綻ぶ。
 小枝ちゃん先生の言いたいこと。
 それはきっと、結局、私がどうしたいか、なのだ。
 良いか悪いか、じゃない。そんなのは本当はどうでもよくて、ただ行きたいか、行きたくないのか。それだけなんだ。
 ……私は、学校に、行きたい。教室に行って、ちゃんと授業を受けて、そして――お兄ちゃんみたいに……ううん。
 普通の女の子みたいなことが、したい。
 友達と一緒に、お喋りをして、お弁当を食べて、笑って、泣いて、たまに喧嘩をして。そんな、そんな当たり前で、でもきっと特別で、大事なことを、したくて。欲しくて。
 私は――。

「…………でも、先生。私はきっと、ずっと、このままだと思います」

 ぽつり。
 耳を澄ませば、空調の音が鳴り響いていた保健室に、私の声がじんわりと、ゆっくり溶けていく。
 ――そう、変わらないのだ。
 仮に、私が変わったところで。変わったとして、なりたい私になったとして。
 周りは、どうだろうか?
 私が変わったように、周りも私のように、変わってくれるだろうか?
 ……答えは、否。人は、周囲は、人間は。そう簡単に変わらないものだ。私が変わったところで、人は、世界は、変わらないのだ。
 だから例え、私が教室に行きたいから行ったとしても。周りはきっと、変わらない。今まで通り、いつもと同じように、何の変わりもなく『私』を『同じ目』で見る。
 私の望んでない、目線で。
 私はそれが嫌なのに。きっと私を、視続ける。
「時沢さん……」
 小枝ちゃん先生の、なんだか物悲しい声が耳を突いた。
 解り合えると、解ってくれたと、思ってくれたんだろうか?
 ううん。私には、分からない。結局、小枝ちゃん先生が私のことを思って、言ってくれてるんだとしても。言葉の意味を分かっていたとしても。
 私は、どうしようもなく、私のままなのだ。
「……いいのよ。大事なのは、時沢さんがどうしたいかだから」
 眉尻を下げて、困ったように笑う小枝ちゃん先生に、私は何故だか胸が痛くなった。
 なんだろう。小枝ちゃん先生を、傷つけてしまったような。そんなこと、ないはずなのに。小枝ちゃん先生の言ってることは、正しいはずなのに。
「せんせっ……」
「さーて! お茶にしましょうか!」
 一瞬、悲しげな表情をした小枝ちゃん先生を呼び止めようとして――それは、すぐに本人の明るい声で遮られた。
 瞬いていると、小枝ちゃん先生は立ち上がって、小さなキッチンで慣れた手つきで一人分のお茶を用意する。
 ――多分。ううん、紛れもない、私の分だ。目の前に置かれた小枝ちゃん先生の愛用のマグカップには、まだまだお茶が残っている。だから、きっと、どう見ても私の分だ。
「はい。今日はアップルティーよ」
「あ……ありがとうございます」
 呆けているうちに、家から持ち込んだマグカップに林檎の香りが漂う紅茶が差し出された。林檎特有の、渋みもありつつ甘さの中に僅かに突く酸っぱい香りが鼻腔をくすぐる。
 家でよく飲む安い紅茶とは大違いだ、と思う。いや、アップルティーはフレーバーティーなので、味より香りを楽しむものなんだろうと思うのだけど。普段飲むフレーバーティーは、お湯を入れた直後に香る程度の、本当に些末なものだから。
 だから、なんて言えば良いのか。一応、お客様に出して恥ずかしくないものを取り揃えていそうな場所で飲めるものは、庶民の私にとっては貴重なものなのだ。
 ……とか、貧乏くさいことを考えてみる。
 実際のところは、お父さんやお母さんが取引先からもらった、というものも飲むから、知らないわけではないのだ。もちろん、その貰い物が本場のものであるとも限らないけど。少なくとも、家事の片手間に飲む用にスーパーで買ったものとは、かなり違う。だからきっと、それなりの物なんだろうと思う。だからといって、何かあるわけじゃないんだけど。
 なんとなく、学校って、こういうところでお金が掛かってるんだなと感じるのだ。
「気に入った?」
「え? あ……まあ……そう、ですね」
 歯切れの悪い反応をすると、小枝ちゃん先生が訝しげな目をする。
「なぁ~にぃ? もっと良い物でも知ってるみたいな顔ね?」
 頬杖をついて、小枝ちゃん先生は試すような顔でそんなことを言う。
「まさか。一円の紅茶しか知りませんよ」
 庶民なので、と付け加えると、小枝ちゃん先生は「ふーん……」とまだ疑うような目を向けてきた。嘘じゃないです、という視線で返せば、小枝ちゃん先生は「まあいいけどね!」と言ってからっと笑った。
「あ、そういえば小枝ちゃん先生、今朝お兄ちゃんが、」
 話題を変えようとした、その時。
 シャッ、と場を切り裂く鋭利な音が、場を制した。
「…………ん、」
「あら、うるさかったかしら? ごめんなさいね」
「…………いえ、…………」
 音の主――もとい、カーテンの隙間から姿を表した男の人が、一人。
 いかにも調子が悪そうに、頭を抱えて出てきたその人の姿に、私は見覚えがあった。
「あ……」
 あなたは……。
 気持ちのまま声に出すと、胡乱げな瞳が、私に向けられる。
「いたはら、先輩……」
 四月の、何気ないやり取りが、頭を過る。
「あなた、は……。っ……」
「あ……せ、せんぱいっ……!」
「あ! こら!」 
 私を見た瞬間、ふらりと倒れそうになった先輩を、小枝ちゃん先生がすんでの所で支えた。
「もぉ! 無理しちゃダメっていつも言ってるでしょう?」
「…………すみません……」
 先輩の額を小突く小枝ちゃん先生の指に、何故だか目が奪われる。
「…………、」
「? 時沢さん?」
 小枝ちゃん先生の声が、私を引き戻す。
「ひゃっ?! あ……」
 私が肩を跳ねると、小枝ちゃん先生は「変なの」と言って、笑った。私はそんな小枝ちゃん先生の態度に何故か、顔が熱くなった。恥ずかしい。別に、何もしてないのに。なんだが、変に動揺しちゃったみたいで。
 うう、恥ずかしい……。
「ほーら。もう一回戻った、戻った!」
 腕に支えられる形で立っていた先輩の背中を、小枝ちゃん先生が軽く叩く。
「…………でも、」
 なんとか態勢を持ち直した先輩が、蚊の鳴くような声で抗議の意を示す。
「口答えする子は早退させますよ?」
「っ……」
 小枝ちゃん先生が両腰に手を当てて、いかにもなポーズをすると、先輩は分かりやすいくらいにたじろいだ。
「…………分かりました」
 先輩はそう言うと、渋々といった様子で背中を丸めてベッドに転がって、それから小枝ちゃん先生が勢いよくカーテンを閉めた。
「まったく。板原くんは困った子ね……」
 そう言いながら、小枝ちゃん先生が「よーいしょ」なんて口にしながら席につく。重労働をした後のようにお茶を啜ると、ほぅ、と一息吐いた。
「今の、って……」
「ん? 板原くんのこと?」
 瞠目していると、小枝ちゃん先生が首を傾げた。
「え、と……そう、です……」
 こくりと頷くと、小枝ちゃん先生は途端にガキ大将のような表情になる。
「…………もしかして、友達?」
「! ちっ、違います!」
 全力で腕を振って否定すれば、小枝ちゃん先生は「冗談よ~」と言って、ケラケラと腹を抱えて笑った。
 もう……意地の悪い人だ。私に友達がいないの分かってて、そんなこと言って。
「……でも、その様子だと、知り合いみたいだけど」
 実に何気ない様子で問うてきた小枝ちゃん先生に、私は何故だが硬直する。
 なんてことはない。だいぶ前、四月の図書室で出会った、優しい人。
 ただ、それだけ。
「その……前に少し、助けてもらって……」
 実に恥ずかしい記憶が、頭の中で再生される。
 本棚の一番上にあった本を取ろうと、手を伸ばしていたら、あの人がぶつかってきて。

 ――男の人……!?

 床に転がったせいもあったのか、自分よりもうんと大きく見えた人に、私は本能的に恐怖を感じていた。
 見るからに上級生っぽい人だったし、背も私より高いし、なにより――顔が怖かったのだ。ぎゅっと寄せられた眉根に、ああ……めちゃくちゃ怒ってる……、なんてことを思った。
 きっと私はこのまま怒られて死ぬんだろうな、なんて。腹を括って。
 それからは決死の謝罪のバーゲンセール。
 とにかくこれ以上迷惑を掛けないうちに、さっさと回収するものは回収して、うまいこと言って早く保健室に帰ろうとしていたら、
「何かお探し、ですか」
 なんて、言われて。
 ……そこからのことは、あまりよく覚えていないのだけれど。とにかく必死で、混乱していた私は、あの人と他にもっと何か会話をした気もするけど、後でまたちゃんとお礼を言おうとして名前まで聞いて――会うことがないまま、気付けば今そのことを思い出すくらい、すっかり忘れていた。
「ふーん、そうなの」
 懐古していると、小枝ちゃん先生があまり興味なさそうに、けど、なんだか楽しそうに目を細めて私を見ていた。
「な、なんですか……」
「んーん? なーんでもないわよ?」
 私が問うと、小枝ちゃん先生はくすりと笑って受け流した。
 な、なんなの……?
 なんだかモヤモヤする気持ちに押されるまま、さらなる追求をしようとしたところで、小枝ちゃん先生は「さーてと!」と言って立ち上がる。
「いい加減お仕事しなくちゃね~」
 ぐっと伸びをした小枝ちゃん先生は、そう言うとマグカップを持って机のほうに戻った。
 ……これは、休憩はおしまいの合図。つまり、先生は先生の、私は私のやるべきことをする時間ということだ。
 先生は書類やら、授業の準備で。私は、生徒として――ようするに、自習をするわけだ。教室で授業を受けない私は、当然ながら周りより一歩どころか、数歩以上も勉強が遅れてしまう。
 そうならないために、私は毎日、教科担当の先生にどこまで授業が進んだのかとか聞いて、あるいはその日出されたプリントを使って、自力で勉強しているのだ。
 これも、小枝ちゃん先生との約束の一つで。
 保健室登校をする代わり、堕落せず、ちゃんと勉強をすること。
 ……最初は、面倒臭いなって、そう思ったけど。
 中間テストの時、それはすぐ、目に見える形として返ってきた。
 自分で思っていた以上に解けない問題。分からない数式、社会問題、読んだ覚えのない物語。
 後日返された結果に、私は小枝ちゃん先生の言葉の真意を理解した。
 それからは、きちんと勉強をしている。分からないところは、小枝ちゃん先生や、他の先生に聞いたりしながら、教室で勉強しているみんなに遅れないよう、毎日、必死に。
 ――いつか、教室に戻れたとき。みんなと、差が無いように。少しでも追いつこうと、同じでいようと。
「……よし、」
 まったりとしていた空気と、面倒臭いと思う自分の心を入れ替えて、鞄から教科書とノート、筆記用具を取り出して広げた。
 まずは、昨日の復習から。
「えと、昨日は……」

 小枝ちゃん先生のペンを走らせる音と、空調の音と、私の独り言と、聞き慣れない先輩の寝息が、保健室を支配していた。
 
「……雨、早く止まないかなぁ」

 ――雨はまだ、降り続いている。