十二月上旬。高校受験前の冬休みという、ある意味地獄のような長期休暇を控えた教室は、物理的にも、精神的にも、異様なまでに凍えていた。
 ――寒い。猛烈に寒い。
 いや、物理的に寒いのは、なかなかに時代錯誤な暖房器具……もとい、教室前方の窓側に設置されたストーブがその役目を一切果たしていないからなのだが。なんだって四十人を少し超えるクラス編成に対して、あんなストーブを使っているのか。それも教室の中央ではなく、隅っこに設置して。そんなの前方に座る奴らしか、その恩恵を受けられないだろうに。
 そんな一部にとっては神のような存在であろう物体に、わらわらと群がる女子達を恨めしく思いながら、僕は固まったように動かない関節を叱咤して、鞄から弁当を取り出した。
「あ~! 腹減ったぁ!」
「……、」
 取り出したと同時に、目の前の席から荒々しい物音がした。顔を上げると、ボサボサとまでは言わないが四方八方に柔く毛先を飛ばす、いわゆる天然パーマを揺らす同級生――戸部涼が座していた。
「……もう少し静かに座れないのか、お前は」
「え~? そんな激しかった?」
 僕が悪態をつくと、涼は「なんで?」と、まるで何も分かっていない無垢な子犬のような表情をする。
「声量と同じくらいには、な」
 そう言うと、涼は目をパチリと瞬きした後、しかめっ面になって少し考える様子を見せる。数瞬して、何かひらめいた様子を見せて彼は、
「…………それ、チョー遠回しにオレの声がめちゃくちゃでかいって言ってね?!」
 と、大声を上げた。
「……自覚があるなら、もう少し――」
 対して僕が日頃の鬱憤を伝えようとしたとき、当人の声で阻まれた。

「あ! ――マフユ~!」

 位置的に前を向いている僕よりも早く、教室前方の廊下側の扉に背を向けるように座っていた同級生が、ひょこりと顔を出した女子の存在に気づいた。
 その大声量に、さすがの彼女も気づいたのだろう、一切の迷いもなく僕の席まで歩いてきた。
「ねえ、涼。体操服の上だけでいいから貸してくれない? 授業の変更あったの忘れて、持ってくんの忘れたのよ」
 女子は、特に僕の存在を気にも留めず、ニコニコと笑う涼に話しかける。僕は一瞬どうしていいものか迷ってしまったが、そんな素振りを見せるのも馬鹿らしい気がして、何も気にしていない風を装って弁当包みを広げた。
「おぅ、いいぜ~! あれ……下はいいのか?」
 ――お前、それは無神経ってやつだぞ。
 涼の何気ない、それでいて気遣いの塊の発言に、『マフユ』と呼ばれた女子は固唾を呑むのが何も知らない僕でも分かった。
「……下は履いてるから大丈夫」
 その、明らか察しろよ、とでも言いたげな怒気を含む声に、涼は「そっかぁ」と軽く返して、自分の席に戻っていった。
「はぁ……」
「…………、」
 マフユ、さんの呆れしかない溜息には同意しかなかったが、別に反応するほどでもない僕は、なるべく存在感を薄めるよう努力して弁当の蓋を開けた。少しだけ、涼が戻ってくるのを待つかどうか考えたが、そんな遠慮をすればあいつに余計な気を遣わせてしまう気がして、箸に手をつけた。
 気にせず食べよう。いただきます。
 内心そう思いながら無言で手を合わせていると、頭上から声が降ってきた。
「騒がしくて悪いわね」
「……え、」
 ――今、僕に話かけたのか?
突然のことに箸を落としかけていると、ドタバタと大きな足音を立てて、涼が戻ってきた。
「ほい!」
「ん、ありがと」
 箸を持ち直している間に、二人は実に慣れた手つきでやり取りをする。僕はそれを横目に、バクバクと脈打つ心臓をなんとか押さえよう必死になっていた。

 ……落ち着け、落ち着け、落ち着け。大丈夫だ。彼女は大丈夫だ。

「あ、せっかくだしマフユも一緒に弁当食べようぜ!」
「はあ?」
 意識を飛ばしかけていると、急に背中を叩かれる。
「たまにはいいじゃん! いいよな、政樹」
「…………っ、ああ、……」
 訳も分からないまま返すと、涼は「ほら政樹も良いって言ってるしさぁ」と言って笑っていた。
「ああ、もう……分かった。一緒に食べればいいんでしょ。ったく、強引なんだから」
 マフユさんはそう言うと、やけに長いマフラーをひらりと翻して教室を出て行った。僕がそれを呆然と眺めていると、今度は頭をぐりぐりと力強くなで回された。
「政樹~? 大丈夫か~?」
「……うるさい。離せ。首がもげる」
「元気かよ~」
 暴力的な手を弾いてやると、涼は口を尖らせて拗ねた様子を見せる。
「……それよりお前、さっきの、」
 どういうことだ。そう問いただそうとしたら、涼は「ああ!」と大きな声を上げた。
「そーいや、まだ紹介してなかったよな? さっきの子、オレの幼馴染みのマフユだよ。ちょっと変わってるとこあるけど、よろしくな!」
「ああ、そうか」
 って、違うそうじゃないその前だ! と声高に叫びかけたところで、涼が手を振りながら「マフユ~」と呑気な声で呼びかけていた。
「恥ずかしいからやめてよ……」
「? なんで?」
「なんでって、あんた……はぁ……」
 きょとんとした顔で首を傾げる涼をよそに、マフユさんはちらりと僕のほうを見て「お邪魔します」と言って、近くの席から椅子を引いて座った。意図せず交わった視線に、ようやく落ち着いてきたはずの心臓は、再びドンドンと叩きつけるように拍動する。
「……ねえ、顔色悪いけど、大丈夫?」
 俯いて胸のあたりを押さえていると、柔らかい女子の手が肩に触れた。
「っ……! だ、大丈夫、です、気にしないで、ください」
 反射的に顔を上げると、マフユさんは驚いた顔で「あ、そう」と言った。目の前に座る涼も似たような表情を浮かべていて、途端に気まずい空気になる。
 やってしまった。気を遣わせないよう、いらぬ心配をかけないようにしていたというのに。僕という奴は、肝心なときにそれが出来ないらしい。こんな初対面の人がいる場で、何かあるような反応をするなんて、言語道断だ。
「……っ、」
 己の不甲斐なさで作り出してしまった苦い空気に歯軋りをすると、視界の端でマフユさんの顔が歪むのが分かった。
 まずい。誤解されてしまった気がする。これは、僕のせいなんだ。だから、あなたが悪いというわけではなく――なんて、そんなこと口に出来るわけがない僕は、ただ押し黙ることしか出来なかった。
「ん~……とりあえずさ、早く食べようぜ! 腹減って死にそ~」
「……そうね。あたしもお腹すいちゃった」
「ああ……」
 
 その日の昼食は、驚くほど喉が通らなかった。それどころか味すらしなくて。それでも残すのは弁当を作ってくれた母に申し訳ないと思い、なんとか食べきろうとして結局気分が悪くなった僕は、午後の授業はほとんど寝て過ごす羽目になってしまったのだ。

◇◆◇◆◇

 あれから数日。
 彼女とは、何度か廊下ですれ違うことがあった。が、そんなとき大体涼と一緒に行動してるか、あるいは彼女と涼が一緒にいるかだったりで、直接会話をすることもなく。彼女のほうも似たような感じなのか、特に何かあるわけでもなく、至って普通の日々を送っていた。
 そんな穏やかで、しかし着実に訪れる地獄の受験戦争の気配をヒシヒシと感じていた頃。離れた場所に建つ校舎の中にある図書室で少しでも勉強をしようとした僕は、ぼんやりとしながら廊下を歩いていた。
 
 今日は積もるほどは降らない地元に珍しく雪が溜まりこみ、昨日よりも一層寒気が辺りを漂っている。ああ、寒い。早く図書室に行って、合法的に暖を取りながら勉学に勤しもう。
 そんなことを考えながら歩を進めていると、前からもう見慣れてしまった赤い髪に長いマフラーをヒラヒラと揺らす女子が歩いてきた。。
「……」
 ――え。どうする……。ここは気づいていないフリでもして、無視してもいいパターンだろうか。それとも軽く会釈をして通り過ぎるか? いや、無理だ。目を合わせるとかそれ以前に、顔を見るのが無理だ。理由なんていくらでもあるが、女子の顔を間近じゃないだろうとか言われても直視するなんて無理だ、出来ない。
 しかし、ここで居留守のような手段を取ったとして、それはそれでものすごく印象が悪い気がする。いや、彼女とは深い仲どころか、計測不可能なくらい浅い仲である、と僕は思っているから、気を遣う必要はまったくないのだが。
「あ、」
「……っ、」
 気分的には数分考え込んでいたら、もう逃げられない距離まで彼女が近づいていた。どう見てもこちらに気付いた反応を見せた彼女に、僕は咄嗟に「どうも」という意味でぺこりと頭を下げてしまった。
「……ねえ、」
 彼女は少しの戸惑いと思案顔を浮かべながら、小さな口を開いた。
「マサキ、だっけ」
「!」
 思いもしなかった名呼びに、びくりと肩を揺らしてしまった。しかし彼女は気づいていないのか、言葉を続ける。
「涼、どこに行ったか知らない?」
「……涼……です、か」
 弁当を食べた後、時沢に用があるとかで教室を走って出て行ったまでは知っているが――その旨を伝えると、彼女は「……そう」と呟くように言った。
「ありがと。……それじゃ」
 そう言って、彼女が身を翻し、
「あ、あの……!」
 ――かけたところで、呼び止めた。……いや、待て。なぜ呼び止めたんだ。もう用済みみたいな雰囲気になっていたじゃないか。
「……?」
「あ……、え、と……」
 何も言わない僕に、訝しげな顔をする彼女。
 
 ど、どうする……? いや、どうもこうもしないのだが。呼び止めてしまった以上、何か、何か口にしなければ――。
 
「マサキ?」
ぐるぐると回る思考に酔いそうになっていたとき、心配する声が耳を突いた。
「っ、の……名前、僕の……!」
 やっと言葉にしたところで、「名前……?」と言って首を傾げる彼女。
「あ、いや……その、」
 ――そういえば、彼女にろくな自己紹介をしていない、気がする。というか、していない。その覚えがない。
 だからだろうか。さっきから名前で呼ばれるのは。たぶん、涼が僕を名前で呼んでいるのを聞いて、それで同じようにしているのだろう。現に僕も、彼女……マフユさんの苗字を知らない。いや、万分の一の確率でもしかしたら『マフユ』という苗字の可能性もあるが――涼と彼女が幼馴染という、親しい間柄であることを考えれば、それはさすがにないだろう。
「名前がどうしたの?」
「……その、あなたに、ちゃんと自己紹介をしていないと、思って……」
 途切れ途切れに僕が言うと、マフユさんははて? といった様子で首を傾げた。
「あー……そういえば、そうね」
 少しの逡巡の後、彼女は遠い目をする。今の今まで何も思わなかったのか、とツッコミを入れたい気分だったが、かくいう僕もさっきまでわりと忘れていたから、お互い様ということにしておいた。あくまで僕の中で、だが。
「今更感あるけど……あたしは、志野真冬」
「志野、さん……」
 やっぱり名前だったか。出会って数日、やっと判明した苗字に少しだけ気が楽になったのが分かった。ただでさえ僕と彼女は何かに値する呼称がない程度の希薄な関係だというのに、そんな馴れ馴れしく名前を呼ぶなんて出来ないからな。
 まあ、苗字が分かったところで彼女に自ら話しかけることなんて、この先ないだろうが。それでも、何かあったときのために頭に記録しておくべきだろう。その何かが彼女にとっては些細なことでも、僕にとっては明日も朝起きて、きちんと登校出来るかどうかという程度には重要な事だから。
「あんたは?」
 彼女は早く、とでも言いたげな様子で言葉を促す。
「……僕、は」
 喉が詰まりかけて、僕は一度、彼女にばれないように息を呑んだ。
「僕は、板原政樹と言います」
 そう名乗ると、志野さんは少しばかり面食らった顔をした。
「……なにか?」
 僕が問うと、彼女は「いや、」と一瞬言葉に詰まる。
「?」
「その……マサキって、名前だったんだ、って思って」
 そう言うと、彼女はどこかバツが悪そうな顔をする。僕はというと、予想していなかった反応に硬直していた。
 ――つまり苗字だと思っていた、ということか? いや、そうだろう。そうなんだろう。なんというか、自分としてはそんなにややこしい名前だと思っていなかったんだが。物語の主人公じゃあるまいし、間違えられることはまずないだろうと。というか、今までそんなこと無かったから、まさかの事態に思考が追いついていないところはある。
「……だってほら、朝のニュース番組の気象予報士にマサキさんって人いるから、てっきり……」
「は、はあ……」
 どこか気まずそうな空気を醸し出しながら、弁解をする志野さん。僕は彼女の言葉にただ頷くとも、首を傾げるともいえない曖昧な反応をすることしか出来なかった。
 なんせ、その朝のニュース番組とやらを見ないから、理由としてしっくり来ないのだ。ただなんというか、別に怒るようなことでもないし、彼女が気に病む必要は無いのだが……それをさせているのは、僕のこれまでの態度のせいだな。よっぽど名前で呼ばれるのが嫌だった、とか思われていても仕方ない。
 かといって、気にしないでください、と言ったところで、彼女はどういう反応をするだろう。僕ならこの気まずさをダシに、彼女から離れてしまいたいところだが。
「――……な奴」
 思考に耽っていると、志野さんがボソリと呟いた。
「え……?」
 反射的に聞き返すと、志野さんはツンとした表情で「なんでもない」と言って、突然歩み出した。
「っ、あ、の、志野さ、」
 足を縺れさせながら彼女に続くと、数歩進んだところで立ち止まった。
「……真冬でいいわよ」
「え、」
 ――は? 今なんて――。
「名前呼びに慣れちゃったから、今更苗字で呼ぶとかめんどくさいし。いいわよね?」
 ひらりと、踊るように振り返った志野さん。その顔は、まるで小悪魔のようだった。
「それじゃ、あたし急いでるから。またね、政樹」
 後ろ手に手を振った彼女は、そのまま軽やかに走り出してその場を後にした。
 
 僕を、一人残して。

「え、あの、」
 ……。
「えぇ……?」

 この日を境に、僕は彼女――真冬さんと、言葉にしがたいなんとも奇妙な深い関係を持つことになったのだ。