お兄ちゃんと板原先輩を連れて、モール内にある喫茶店にやってきた。
 大型チェーンとはまた違う、かといって個人が営業しているとは言い難いよくわからないここが、穴場すぎないけど有名でもないという点で、私はなんとなく好きだった。埋もれてるといえばそうだし、でも知ってる人は知ってる、みたいな。そんな感じの微妙さが、行き過ぎないくらいの特別感があって、人に紹介するにはもってこいなのだ。
 別にチェーン店でもいいし、見栄を張りたいってわけでもないんだけど。せっかくだし、先輩に知ってもらうのもいいかな、って思ったんだ。
「板原先輩、どうしますか?」
「……ああ、僕は……」
 机の脇に立て掛けられたメニュー表を、一枚ずつ捲る。軽食、デザート、ドリンク。あと、ランチタイム限定のセットとか。静かに悩む先輩に、個人的なおすすめとか言ってもいいのかな、なんて考えていると、お兄ちゃんの不機嫌な声でそれは遮られた。
「早く決めろよ」
 待たせんな、と口走るお兄ちゃんに、私は肘鉄を入れる。
「水しか飲まない人に待つも待たないもないでしょ?」
 私がそう言うと、お兄ちゃんはぐっと息を詰まらせて、押し黙る。よし、そのまま黙っていてほしい。この場のメインは先輩であって、お兄ちゃんではないのだ。むしろお兄ちゃんは勝手についてきただけだし。
「……では、サンドイッチと、コービーを」
「はい、分かりました」
 ……いや、だからといって、お兄ちゃんがいないと困るのも事実だ。ほとんどどころか、ほぼ会話をしたことがない先輩と、いきなり二人きり。学校じゃない場所で。それも、休日に。どう足掻いても、お互いオフの日にやることではない。学校のことは、学校がある日に。休日のことは、休日に。
 でも、私と先輩は、深い仲じゃない。ただ少し前に、助け助けられた程度の浅い仲。だけどお兄ちゃんは、先輩と同学年で、しかも――共通の友達が、いるらしい。
「すみません」
 手を挙げて、店員さんに注文をする。
 先輩の分と、私の分。私は、パンケーキと紅茶を頼んだ。お昼ご飯なんだから、先輩みたいに軽食を頼んでも良かったんだけど。なんとなく、食べたいものがなくて、結局甘いものに逃げてしまった。たまには、いいよね。
「……」
「……あの、先輩、」
 店員さんが去った後、少しの沈黙が流れて、完全に会話が途切れる前に、私は話題を振った。
「この前、というか……だいぶ前ですけど、ありがとうございました」
 軽く頭を下げて言うと、先輩は「いや……」と言い淀む。
「……お礼を、言われることでは……ない、です。元はと言えば、僕のせいですし……」
 先輩はそれだけ言うと、目を逸らしてコップに口をつけた。
「おい、どういうことだ」
「お兄ちゃ……!」
 氷水を啜る先輩に、お兄ちゃんが間髪入れずに食いつく。嫌な予感がして、すぐに止めようとしたけど、お兄ちゃんは御構いなしに追撃をした。
「よねに何したんだ? 言ってみろよ、ほら」
「…………」
 詰め寄るお兄ちゃんに、先輩は目を逸らしたまま、無言を貫いて――私の顔を、見てきた。助けを求めてるっていうよりは、同意を求めるような表情、というか。
 ――ああ、面倒臭い。お兄ちゃんが。私はただお礼を言っただけだし、そもそもお兄ちゃんには一切関係ないことなのに。なんでそう突っかかるのかな。いや、私が原因なのは分かってるんだけど。
「…………お兄ちゃん」
 もういいでしょ。そういう感じで、隣に座る兄の太ももを抓る。するとお兄ちゃんは、イテ、と情けない声を上げた。それを、先輩は首を傾げて見ていた。
「何でもないですよ、先輩」
「は、はあ……」
 私がにこりと笑うと、先輩はなんとも言えない顔で頷いた。お兄ちゃんは不服そうに「よねぇ……」と言ってきたけど、知らんぷりだ。
「お待たせしました」
 そうこうしているうちに、店員さんがさっき注文したものを持ってきてくれた。「ありがとうございます」と、私と先輩がほぼ同時に言って受け取ると、店員さんは会釈をして去った。
「いただきます」
「……いただきます」
 手を合わせて、合掌をする。小さい頃からの習慣で、なんとなくやっていることだけれど。……そっか。先輩も、するんだ。なんだか、少し親近感。
「そういえば、板原先輩。……聞いても、いいですか?」
「……?」
 サンドイッチを細々と啄む先輩。視線だけ向ける先輩に、少しだけ待ったほうがいいかなって思ったけど、逆に気を使わせる気がして、続けることにした。
「その……涼くんのこと知ってる……というか、友達、なんですか?」
「……!」
 私が聞くと、先輩は目を見開いた。
「あ、その、さっき先輩のお母様、が言ってた、のと、お兄ちゃんと……その、知り合い、みたいだったから、もしかしてって……」
 しどろもどろに続ければ、先輩は少しの咀嚼の後、コーヒーを飲んで、口を開いた。
「…………一応、そういう感じ、です」
 静かに首肯した先輩は、またサンドイッチを口に含んだ。
 やっぱり。そう、なんだ。
 あの涼くんと、先輩が友達って、なんだか意外だ。というか、そこで繋がるって、世間って狭いんだなっていうか。でも、お兄ちゃんと先輩が知り合いっていうのも、これで納得がいった。お兄ちゃんは人付き合いをとにかく選ぶし、涼くんとだって、最初は仲が悪かった……らしい、から。だから、そんなお兄ちゃんと性格がまったく違う板原先輩は、そういう間の繋がりみたいなものがないと、関わることがない……と、私は思うわけで。
 ……いや、涼くんの交友関係が広すぎるだけなのかな。そんな気もする。
「そう、なんですね。……なんだか、変な感じ」
「……」
 少し笑いながら私が言うと、先輩はどこか気まずそうな顔で、コーヒーを飲んだ。なんだろう、と思った瞬間、隣にいたお兄ちゃんが口を開いた。
「……涼がおかしいんだよ。ケッ……」
 お兄ちゃんは吐き捨てるように言うと、残っていた水を一気に飲み干した。
「……お兄ちゃん。なんでさっきからそう……、涼くんと先輩に、失礼でしょ」
 さすがに、それは言い過ぎだ。どういう意味で言ってるのか、よく分からないけど。先輩をやたら毛嫌いするのも、ただ少し話題に出した涼くんのことを悪く言うのも。やりすぎだと思う。
「……よね。この際だから、はっきり言っておく。涼はともかく、……そいつはダメだ。信用するな」
 お兄ちゃんはそれだけ言うと、席を立つ。もう行くぞ。そう、言って。
「お兄ちゃん、……」
 なんで、そんなこと言うの。って、言おうとして。
 ――私たちから目線を逸らしたまま、何も言わない、否定しない板原先輩に、私は思わず口を閉ざした。
「…………」
 眉根を寄せて、けれどただ無表情の先輩は、残っていたサンドイッチを一口で食べきった。それから、お手拭きで手を拭いて、立ち上がる。
「……よね」
 ほら。お兄ちゃんに手を引っ張られて、立てずにいた私は無理矢理席を立たされる。
「なんで、」
 待ってよ。納得いかないよ。
「……よねさん。行きましょう」
 ――抵抗しようとして。それは、先輩の平坦な声に遮られた。なんの感情も湧かない、色のない、声。今まで聞いてきた中で、一切何も含まないそれに、私は思わず身震いした。
「せん、ぱ……」
 どうして何も、言い返さないんですか。あんな、失礼どころか、もはや喧嘩を売ってるとしか言えないお兄ちゃんの、言葉に。
 なんで、なんでそんな、

 ――諦めたような顔を、するんですか。

「ありがとうございましたー」
 店員さんののんびりした声を背に、私たちは喫茶店を出た。先輩は、スマートフォンを取り出して画面を確認すると、「……では」と言って、足早にモールの出口に向かっていった。多分、お母様と待ち合わせてるんだろう。
 お兄ちゃんと私は先輩を見送って、それから買い物を続けた。
「……」
「……お兄ちゃん」
 微妙な空気、というか、険悪な空気。
 そりゃそうだ。あんな別れ方、みたいなことさせられて、先輩に酷いこと言って。
 それなのにお兄ちゃんは、俺は何も間違ったことは言ってない。みたいな顔をしてて。
「お兄ちゃん、板原先輩は、」
「……何回も言わせんな」
 悪い人じゃないでしょ。そう言おうとして、お兄ちゃんの怒気を含んだ声に止められる。
「でもっ」
「よね」
「っ……」
 楯突こうとすると、お兄ちゃんは目を細めて、私を睨んできた。
 その表情に、私は反射的に怯む。……怖い。どう考えても、怒ってる。けど、いくらなんでもこれはおかしい。嫌うにしたって、そこまで露骨にするなんて。
 正直、お兄ちゃんらしくない。
 ……らしく、ないのに。でも、言い切るだけの自信が、何故かなくて。

 私は結局、何も言えないまま、ただお兄ちゃんと先輩の間にある深い溝を、見ていることしか出来なかった。